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The statue of a comfort woman in San Francisco [メモやスクラップ]

なんかいやな記事を見つける。
今まで日本が「真実は歴史が証明する。歴史問題は静観して、友好を築くことが大事だ。そうすれば何れは韓国も真実を認識するだろう」と長年反論をしなかった政府と外務省と政治家に責任がある。

相手は同じように「真実の歴史は我々のほうだ。我々の主張を日本に認めさせなければならない。その為に友好を築くことが大事だ。そうすれば何れは韓国が正しいと日本国民が認識し、政府も従わなくてはならなくなるだろう」と考えるとは猿でも解る事なのに。

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強制連行の誤解の原因

ネットで検索中に偶然こんなブログを発見。
https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64979263.html

2年前の記事なので言及してもどうかと思ったけど、一寸思ったことがあったので。
その記事で問題にされているのが次の文書。
photo33-80.jpg

この公文書の本文は以下のとおり。

證明書
(肩書:黒塗部分)
(名前:黒塗部分)
當年二十二才

右ハ當隊附屬慰安所經營者ニシテ今囘慰安婦連行ノタメ歸●セシモノナリ
 就テハ慰安婦ハ當隊慰安ノタメ是非必要ナルモノニ付之カ渡航ニ關シテハ何分ノ便宜附與方取計相成度
右證明ス

 昭和十五年六月二十七日
  南支派遣鹽田兵团林部隊長林義秀

語句解説:
證明書=証明書。當=当。屬=属。囘=回。歸=帰。關=関。鹽=塩
附與=付与
团=團、簡略字の団の原型。
就テ=読み方:ついて
度=「~する。~す」という古語由来の接尾語→「便宜附與方取計相成度(便宜の付与のほう、取計らうこと)」=相成(あいなる)と度で「~すること」という意味に。
●=字が読み難く、恐らく臺(台)?

で、何が言いたいかというと、これは慰安所へ娼婦の引率に当たっての身分証明書と許可証を兼ねたものでそれ以上でもそれ以下でもない。

ここでブログ主が問題にしている「連行」の解釈。
この頃の連行の意味は「連れ去る」という意味ではなく「連れ添う」や「同伴する」という意味で、軍隊で使われると「保護する」や「護衛する」という解釈が妥当でしょう。

要するに、しつこいようですが「慰安所では娼婦様の到着を首を長くして待ってるから一緒に帰隊します」という意味。

これを強制徴用と解釈するには「強制」を意味する接辞語を付けて例えば「強制連行」等としないといけない。進駐と侵略ほどの違いがある。

現在の日本語の意味で解釈するという根本的な誤りが原因で、政治家も含めてもう少し国語、特に古文を勉強して欲しい(あ、私も勉強しなきゃw)

<追記>
日本人でも読み間違える古文調の文面。韓国人にはまず読めないでしょう。
誤解釈の影響は大きい。

この証明書の文面では「連れて行く」という出来事を示しているだけで、強制連行かどうかまではわからない。
戦時下では庶民の渡航は許可制になり、軍が管理することになるから軍の文書が出るのは当然。
もし強制連行であったら、証明書ではなく命令書のはずで、便宜を計らって(丁寧に扱ってという意味)というのも不自然と思います。

こういった文書の解読の違いも混乱の原因でしょうね。

ところで、旅団からの要請で慰安婦を連れて行くための証明書であることから、明らかに軍の関与の動かぬ証拠と言うのが大勢だけど、当時は娼館の設置は違法ではなく、娼婦は職業の一つであり、西洋も含む全世界でも普通のことであったため、現代人の私からはトンデモナイことだけど、これを理由に当時の人々を攻め立てるのは酷だと思う。
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If I can born again?

I want to become an IDOL by joining AKB 48!
ヾ (゚ Д ゚) マジデスカ

Well, if I am decades young, I would been dreaming it.
But I can not became, because my looks and style is so bad...

お後が宜しいようで・・・・
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高校・大学の授業料無償化は反対

大学まで無償化されると医大などの受験戦争を過当に悪化させ、受験生が地獄を見るだけだ。
裕福な家庭との格差を解消するためなら、奨学金制度があるではないか。

奨学金制度というのは抑々貧困層の救済のためにある制度。
完全無償化する必要はない。
金持ちまで救済して意味があるのか。

授業料を払える家庭は払い、払えない家庭は無償、あるいは出世払い(一定年収に到達したら一部奨学金の返済義務)。
完全無償化に当てる財源があるのなら、少子化対策・待機児童対策・基礎科学技術研究費への足しにして欲しい。

本来、義務教育が終われば希望の職業に就くために各種学校に入るべきで、
その為に高専や商業工業、工業高校がある。美容学校や調理師学校なども高校の学科に加えてもいい気がする。

あと、大学の数が多すぎる。
大学の数の推移を昨年度から団塊の世代後までさかのぼって5年毎の間隔で表にしてみた。

団塊の世代の次の世代に移った昭和末期以降も何故か増え続ける大学数。
途中から少子化の影響で大学の増設を停止。
国立大が統合されて全体数が減ったことから公立大(県立・市立など)が増え県や市の財政を圧迫しただけ。
少子化が進む中大学の数が減らないことから、やはり天下り先疑惑は拭えない。
各大学2名(理事・教授各一人くらい)は最低でもいると数えたら天下りした元官僚は1500人はいるということに。

学校数


国立 公立 私立

昭和57年(1982年)計455
95
34
326


昭和62年(1987年)計474
95
37
342


平成4年(1992年)計523
98
41
384


平成9年(1997年)計586
98
57
431


平成14年(2002年)計686
99
75
512


平成19年(2007年)計756
87
89
580


平成24年(2012年)計783
86
92
605


平成29年(2017年)計780
86
90
604



平成29年5月1日現在 国立86校 公立89校 私立604校 計779校 国立大学の比率11.4%
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ロヒンギャ

数日前にロヒンギャについて触れましたが、大雑把に書いたので補足としてWikioediaの記事から抜粋して転載。

歴史的経緯

ミャウー朝アラカン王国は15世紀前半から18世紀後半まで、現在のラカイン州にあたる地域で栄えていた。この時代、多数を占める仏教徒が少数のムスリムと共存していた。折しもムスリム商人全盛の時代であり、仏教徒の王もイスラーム教に対して融和的であった。王の臣下には従者や傭兵となったムスリムも含まれ、仏教徒とムスリムの間に宗教的対立は見られなかった。

アラカン王国は1785年にコンバウン朝の攻撃により滅亡し、その後、旧アラカン王国の地は40年ほどコンバウン朝による統治がなされるが、それを嫌ったムスリムがベンガル側に逃げ、ラカイン人仏教徒も一部が避難した。
だが、このような状況は19世紀に一変した。コンバウン朝は第一次英緬戦争(第一次イギリス・ビルマ戦争)に敗北し、1826年にラカインは割譲され英国の植民地となった。
すでに英領インドとなっていたベンガル側より、コンバウン朝の支配から逃避していた人々が回帰したことに加え、新しく移住を開始する者も増え、大勢のムスリムが定住していった。このような急激な移民の流入が、北部ラカインの仏教徒とムスリムとの共存関係を崩した。

1886年、コンバウン朝は第三次英緬戦争に敗北して滅亡、ビルマ全土が英領インドに編入された。
これにより多数のインド系移民(印僑)が流入するに至る。印僑には商工業経営や金融業、植民地軍将兵や下級公務員としてビルマに赴き、ラングーンなどに長期滞在したり定住するものも一定数いたが、多くの場合はヒンドゥー教徒やムスリムを問わず、下層労働者としての移住者であり、3-4年ほどでインドに戻る短期移民であった。だが、ラカイン北西部に移民したムスリムは、同じ下層労働者であっても定住移民となって土着化し、仏教徒との軋轢を強めていった。

このような流れのなか、20世紀初頭からインド系移民への排斥感情が強まり、1939年、英領ビルマでは、ビルマ人仏教徒女性を保護するという名目で、外国人との通婚にさまざまな制限を課す法律が植民地議会を通過して施行され、実質的にビルマ人仏教徒女性とインド系ムスリム男性の結婚を制限しようとした。

また第二次世界大戦中、日本軍が英軍を放逐しビルマを占領すると、日本軍はラカイン人仏教徒の一部に対する武装化を行い、仏教徒の一部がラカイン奪還を目指す英軍との戦いに参加することになった。
これに対して英軍もベンガルに避難したムスリムの一部を武装化するとラカインに侵入させ、日本軍との戦闘に利用しようとした。しかし、現実の戦闘はムスリムと仏教徒が血で血を洗う宗教戦争の状態となり、ラカインにおける両教徒の対立は取り返しのつかない地点にまで至る。

1948年1月、ビルマは共和制の連邦国家として英国からの独立を達成した。しかし、ビルマは独立直後から、民族対立・宗教対立・イデオロギー対立などにみまわれて、混乱は収束することなくそのまま内戦に突入した(ビルマ内戦)。
ラカイン州も例外ではなく、当時の東パキスタン(現バングラデシュ)と国境を接する北西部は、1950年代初頭まで中央政府の力が充分に及ばない地域として残された。東パキスタンで食糧不足に苦しんだベンガル人(ムスリム)がラカインに流入し、そのことが仏教徒との対立をさらに強めた。流入したムスリムのなかには、1960年代初頭に政府軍によって鎮圧された、ムジャヒディンを名乗るパキスタン人の率いた武装反乱勢力も存在した。
この混乱期において、ラカイン北西部に住むムスリムの「総称」として「名乗り」を挙げたのがロヒンギャだった。
現在、ロヒンギャの名前を付した文書として最も古く遡れるものは、1950年に彼らがウー・ヌ首相に宛てた公式の手紙である。これ以前にもロヒンギャ名が使われた可能性は否定されていないが、使用したとする確実な史料はみつかっていない。宗主国英国側の行政文書には、チッタゴン人(Chittagonians)という表記が圧倒的に多く、ロヒンギャないしはそれに近い発音(スペル)の名称はいっさい登場しない。

ビルマ人の歴史学者によれば、アラカン王国を形成していた人々]が代々継承してきた農地が、英領時代に植民地政策のひとつである「ザミーンダール(またはザミーンダーリー)制度」によって奪われ、チッタゴンからのベンガル系イスラーム教徒の労働移民にあてがわれたという。この頃より、「アラカン仏教徒」対「移民イスラーム教徒」という対立構造が、この国境地帯で熟成していったと説明している。

日本軍の進軍によって英領行政が破綻すると、失地回復したアラカン人はビルマ軍に協力し、ロヒンギャの迫害と追放を開始した。1982年の市民権法でロヒンギャは正式に非国民であるとし、国籍が剥奪された。そのため、ロヒンギャの多くは無国籍者である。市民権法はロヒンギャに限らず、1948年1月の独立時点で、ビルマ国内に居住していない、あるいは居住が確認されていないとした者の国籍を全て剥奪した法律だった

現在のミャンマーは、新規の帰化についても原則として政府の認めた135民族に限っているため、ロヒンギャが改めてミャンマーへの帰化を申請しても、認められることは無い。


これ、どう見ても母国バングラディッシュと植民地時代宗主国だった英国が難民を引き受けるべきでしょう。
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